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もう動けない

 2006-09-30
人と会う約束をしていたので、大慌てで自転車を漕ぎ
駅に向かった。

改札をくぐると出発一分前。
地元の列車は乗り過ごすと30分後。

後はこの階段を降りるだけ。。







caup9nfd.jpg




こんな感じになってしまった。


みんなが見ている前で、見事に階段を滑り落ちた。
蒲田行進曲の曲があれば笑えるのに。
「し~~ん」とした空気に包まれて・・

階段近くの車両は恥ずかしいので、激痛にもかかわらず、
後ろの車両まで歩いていき、座席に座った。

痛みで心臓がバクバクする。

靴を脱いで足首を動かすと回るので折れていないと。。
でもすごく痛い。



目的地の最寄駅に着き、そこから歩く。
痛い足を引きずりながら500メートルくらい。
すごく長い・・・

人と会って話しているときも集中できず
申しわけないことをしてしまった。

本当は帰るまでに
気分転換に映画とか観光とか考えていたけど
さっさっと切り上げて駅に向かうことにした。

途中の道のり、自転車、
歯を食いしばって脂汗。


そして家に着き靴と靴下を脱ぐと・・

象みたい。

かばいながら歩いていたので、異様な腫れ方
浮腫みもひどい。

家までは何とか歩けたのに気が緩んだのか
その後同じように歩けなくなってしまった。

家の中でケン・ケンをして進んでいるが
もう疲れた、動けない。。

トイレにも行きたくない。


気をつけたらよかった。
・・・なんていう後悔が起こるけど
普段の生活だと床が濡れていない限り
一歩一歩慎重に階段を降りるような事はしない。

こんなところで滑るはずはない。。
という思いを持っている。
だからこそ改めて当たり前のこと、何気ない日常こそ
見直すことは必要なのだ。

そして怪我をした、こういうときにしか
普段の健康な状態をありがたく思わないので
もっと労われよ!!という身体のサインだろう。


ついつい当たり前と思っているけど
5体満足に生まれたことの意味を大切にしたい。

当たり前のことだと思っていることを
本当にそうなのか確認し、見つめなおし
感謝しするって大事なことだな。。






追記)

病院は閉まっているので
登山用に買ったストックを杖代わりにして
なんとか家の中を歩き回っている。
インドアだけどアウトドアのような気分汗
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そのキャラだと死んじゃうよ

 2006-09-28
caqh0z4r.jpg
テレビを見ていたら、タレントの松村の劇痩せに驚いた。
そういえば最近テレビで見かけないと思っていたので
病み上がり??って思っていたのだが、
実際は健康のためにダイエットをしているらしいのだ。

これまではダイエットをすることで、キャラが変わり
仕事に差支えをすることを懸念していたらしいが
さすがに命にかかわるということで心を入れ替えたらしい。

痩せると仕事が減るかもしれない。

時間をかけて一生懸命作り上げることができた
自分にとって安心できる、安全な領域をぶち壊す行為は
本当に勇気が要るだろう。


そして一度作ったものを作り直す行為は
本当に大変だと思う。


例えば、新入社員として入社した会社で過ごす内
出来上がってしまった個性。
それが自分には不本意な状態であるにしても
キャラを変えるというのはすごく勇気のいる行為だと思う。

しかしその場合何が邪魔をしているのだろう・・・。

松村のように命にかかわる行為ではないはずなのに・・・

自分にとっての納得のいく姿じゃないのに
偽りのキャラという着ぐるみの中で過ごしている。

なんだかんだ言って、
偽りの姿が大好きなんじゃないかな。。
心地がいいと思っているから、そのキャラを保つのだろう。

この姿は本当の自分じゃない!!って思い続けることで
自分をかわいがろうとしているんじゃないかな。。

そんなことを思った。



もし、あなたにとって
不本意だと思う偽りのキャラで過ごし続けるとしたら
5年後死んでしまいますよ!!って、言われたら
どのようなキャラで過ごしたいですか??

今いる領域より
心地良いと思っているにもかかわらず変化できない。
変化することで何を失うと思っているんだろうね。
偽り続けているあなたは好きですか??

チョメチョメ志向

 2006-09-26
前回の日記は、感情丸出しで
自分で読み返してもうまくまとめられなかった・・・。

だから自分の中のお口直しです。


今日安倍さんが総理になったけど
見ていてヒットラーみたいな顔と思ってしまった。
色々騒がれている悪の部分が出なければいいなぁと
思いつつ、組閣人事を見ていたけれど華がない。

安倍さんは、なに志向なんだろうとか思ってしまった。

志向って言うのは、タイプわけの一種で
以前そのわけ方を教えてもらったので、少し整理しておく。



○・△・□って書いても意味がわからないと思うけど
僕はこういう覚え方をしている。

ちなみに政治家は□タイプなのだ。


例えとして求人広告を出してやってくる人材に置き換える。


・「楽しい職場、みんな仲良くコミュニケーション。
私たちと一緒に働きませんか??」


こういうい募集をすると○型タイプが応募してくる。
こういうのを人志向といって、人とのつながりを大切にして
争うごとなどを嫌うタイプ


・「やったらやったもん勝ち、稼げます。毎月ボーナス」

こういう募集をすると△型タイプが応募してくる。
こういう人を金志向といって、一匹狼で行動しながらも
野心を持って動き出すタイプ。トップ営業マンに多いタイプ。


・「今日からあなたもオーナーです。独立できます。」

こういう募集をすると□型タイプが応募してくる。
こういう人を権力志向といって、政治家などに多く弁が立つ。
リーダーシップを発揮して人を引っ張っていくことができる。



このように3つのタイプに分かれているけど
一方の人ばかりそろっても、うまく機能していかない。
たとえば△ばかりだと、チームはまとまらない。
○ばかりだと実行力が弱い
□ばかりだと喧嘩になる。

バランスが必要なのだ。。

しかし面白いことに、○の人が何かを始めるにあたって
声をかける人は△の人が多いらしく
△の人は□に、□の人は○に声をかけるそうだ。

だから自分が○型だと知っていれば、
営業タイプの人と出会うことができる。
しかし、このままだとチームをまとめることができない。
その場合、知り合った△の人の持っている人脈から
知り合いを紹介してもらうのだ。
すると必ず影響力を持った権力志向の人が見つかり、
うまく組織が出来上がる。

知り合いの知り合いって大事なんだと思う。

役に立つかわからないけど、
人の繋がり方について雑学のおすそ分けです。

下請けで良いのか?

 2006-09-25
もう7年も前になるが
外資メーカーの流通の仕事として、販路開拓・
会員教育・プロモーション・リーダー育成・セミナー企画
他グループとコラボ・3000人規模のイベント開催

携わった4年間は本当に色々と経験し学びになった。

そのときの仲間の大事にしていた思いは
「やり続けること。」

辞めずに続けることが一番の成功だといわれてきた。

しかし辞めてみて見えることもあるのが現実である。

昨年前職を辞めたのだが、辞めてみて見えることも多く、
いい職場だったといえるのではないかと思うこともある。

images.jpg

前職を辞めて、一人小船で海に出てたのだが
方向はあっているのに、オールが無い。
手でバシャバシャもがいている感覚だ。

売っているものは生モノなので
早く届けたいのに一向に売れていかない。
周りには、同じように海に出ている小船たち。
一見漂流しているように見える。
小船たちは生モノが腐らないように、
お互いに助け合いながら商品を守り続けた。
中には小船間で、同じ商品を交換し始めた。

そんな中、モーターボートに乗った人が
僕たちと同じ商品を積んでさまざまな島に停泊し始めた。

僕も負けずに島を目指すが、
同じ商品なのに島には一切入れてくれることなく、
ただただ島巡りをするしかなかった。

モーターボートに乗る権利がある人は
島の身内とか、島の住人の紹介
モーターボートを作る技術のある人。
昔からの人脈や経験が大きく左右しているのだ。
中にはモーターボートに牽引され
島の通行許可書を手に入れ、新規にボートを作る人もいる。

そんな中
小船同士を合体させ上陸するものも出てきた。


多くの小船たちは、自分の小船の手入れを怠らなければ
きっと島の住人に気が付いてもらえるだろう。
そう思って手入れをする道具をそろえたり
掃除をし続けた。

僕もそう思っていた。


しかし周りから見ればすべて同じ小船で、
同じものしか扱っていないのだ。。



話を現実に戻すと
これまで営業という形で提案をしてきたが
門前払いやアポさえ取れないことが続いた。
しかし商品が悪いのではなく、同じものを扱っているのに
スムーズに企業や役所に入り込む人もいる。

こつこつ継続すれば、紹介されるだろう。
入り込んでいる人と繋がっているうちに、
いつかは自分にもチャンスがあると信じていた。

しかし、同じ商品を持った船は船でしかないのだ。

他の小船と何が違うのかを語れないといけないし
商品の品数を増やしていかないといけない。
仕事を発注する人は、べつに誰がやってもよく、
同じ商品なら都合のいい人。
たまたま知っているから。
そういう理由で選ばれていく。

まるで下請け業者のような感覚でいないといけないのだ。
下請けは一時的に受注されたとしても、
いつかは違う人に取って代わられるのだ。
常に新しい商品をチェックし取り扱い続けるのがいいのか??



もし多くの小船のなかに、
浮き輪ひとつで浮かんでいる人がいたとしたら
きっと目に留まるだろう。
ゴムボートでいても目立つだろう。
そしてそれが赤色ならより目立つだろう。
海に浮かばなくても、空から落ちてきても良いだろう。

それが誰にもまねできないものならどうだろう。
下請けではなく、向こうから上陸許可書を発行してまで
手に入れたいと思うものだと思う。



僕がこれまでやってきたことを辞め、陸に上がり見えたもの。
使命を持って海に出てにもかかわらず、
漂流し続ける小船たちのこと。

その商品はすばらしいから、いつかは売れると思って
一生懸命商品が腐らないように手入れして
浮かび続けている人たち。

まるでガラスの靴を落としたシンデレラのように見える。

小船に浮かんでいる人たちは、
「わたし掘り出し物なのよ。ラブ」といって、
いつか白馬の王子様と出会えるんだと夢見続ける。

商品のよさを知ってもらうだけで
お金儲けをしようと思っていないといいながら
まだ仲間がいると思って安心して小船に乗って、
いつか島に到着したら良いな~と思っている人が
多すぎるようにおもう。
そうしているうちに、新機種に太刀打ちできなくなる。
船のメンテナンスはもういい。
いかに島に上陸し続けるかが大切なのだ。

上陸方法を考えるのに
上陸できていない小船同士でいることは無駄。

そして下請けでなく
自分が元請けとなり、上陸される立場になることが
結果的に本当の支援に繋がるとおもうのだ。


異業種との出会い、プロモーション
マーケティングの勉強をおざなりにしてはいけないのだ。

もし双子なら

 2006-09-24
images.jpg

学生のころ、一卵性の双子がいると騒いだものだ。
差別ではなく珍しいという感覚。

いいなぁ~~って思った記憶がある。


芸能人にも双子が多く活躍している。
いつも一緒で仲がいい。
見ていてほのぼのさせられる。

実務の人がいうには、本当に仲が良いらしく
兄弟では遺産の相続で喧嘩をするらしいが
双子では一切相続問題が起こらないらしいのだ。


いつも側に自分のことを知っている人がいるっていいな
と思うばかりだけど、

もし・・・僕にいたら。。

川やんA
川やんB

そんないわれ方じゃなく、一人の人格として
どのように確立するか。。




彼らは自分の個性を発揮するために、どんな人たちよりも
自分を見つめているのかもしれない。

幼いころは、無理に違う服を着たり
違う友人と交流を持つようにしていたものもいた。

いつも比べられる環境におかれているからこそ
幼いころから個性を意識していたのだろう。

芸能人だと、一人しか使いません!!といわれたとき
どう個性を発揮して売り出していくのだろう。。


「どう違うの?」

きっと一番多く聞かれる質問なのかもしれない。



僕は独りしかいない。
姿形、性質で大きく比べられるようなことはない。
でももし双子だったとしたら、
さらにどういうプロモーションするだろう。

もっと自己主張するだろうか・・・?

どのような個性をアピールするだろう。


多くの人は比べられることを嫌う。
しかし、比べられないための自己アピールは
案外へたくそなんだと思う。

比べられた人と自分は違っているって思うから
否定するのに、何がどう違うのか伝えられない。

いつも自分に双子がいると思って
その中でも個性を活かすには、
どの部分をアピールすればいいのだろう。。

双子になった気持ちで自分をプロデュース

ぜひ名プロデューサーになってください。


こだわり、時間と対峙する

 2006-09-22
9月は僕にとって文化的なバイオリズムなのか知らないが
毎年文字に関わっているように思う。
おととしはHPなどのツール
去年は資料つくり
今年はプログラム作り
日記は、なんと10日以降ほぼ毎日更新拍手
すばらしい。。祝




さて本題、
例え話として翌日に長期出張を控えた人が
急にイチゴのショートケーキが食べたいと想定する。
そのケーキは、そこら辺に売っているものじゃなくて
お気に入りのお店でしか作っていないらしいのだ。

彼は、このケーキを食べたいが為に断食までした。
本当は、すぐに買いに行きたいのを我慢して、
明日の準備や片づけをし、ようやくお店に行くことになる。


しかし行くと休日・・・。  しかも一週間・・・。

最初に書いたが、彼には残された時間が全くない・・・。
出張から戻るまで我慢することも考えられるが、
彼は、そこまで耐えることができなかった。

そこで妥協し、その他のお店で買うかどうかを選択する。
それでもこだわりを安易に捨てることに躊躇し、
自分の望むべきケーキを食べるんだと思いながらも
空腹に耐えられなくなり、他のお店に行くことにした。

この時点で彼の頭には、
お気に入りのお店のイチゴのショートケーキから
どこでも良いけどイチゴのショートケーキに変化をした。


その後何件か回るが、イチゴのケーキは売り切れで
モンブランとかチーズケーキしか残っていない。

ここでまた彼は選択する。
「イチゴが食べたいのに栗や乳で良いのか??」

こんなことを考えながら時は経ち
とうとう
どこの店でもケーキを買うことができなくなった。


彼は空腹で仕方がない。

彼はケーキを食べたいという思いから
空腹を満たしたいという願いに変化してしまったのだ。

そんな時バックを開けると、中にビスケットが入っていた。
あまりに腹が減っていたので、
ついつい、そのビスケットを食べてしまった。

食べた後
お腹は満たされたのに、なぜか虚しい気持ちになった。



こだわり続けると満たされることができない。
満たされない気持ちがあると、こだわりを忘れる。

もちろん求めている本質は大切なんだけど
適齢期を過ぎた恋愛とか卒業迫った学生の就職、
この日記の場合「翌日出張」という時間だけど、

人が焦りを覚えたときには、気持ちが揺れてしまう。

だからこそ目的と本質を見失わず
満たされない気持ちに対しても、
安易に妥協をしてはいけないように思ったのだ。。
後悔したくなければ。。

感情を使って謝罪する

 2006-09-20
悪いことをしたと思えば、心からお詫びする
このときは笑いながらじゃいけないし、
相手の顔をきちんと見て伝えないといけないと思っている。

前職でトラブルを起こしたときには、上司に報告した。
すごく申しわけない気持ちが優先して反省した。
その後トラブル報告書というものを記入させられたのだが、
提出の時には、その上の上司に説明し謝罪することになる。

そしてトラブルが大きい場合、さらにその上の上司に
謝罪する。

ここまでくると、当初感じていた謝罪という気持ちが薄れ
トラブルの経緯を説明することすら苦痛になり、
すごく抑圧された感覚を覚えたものだ。

謝罪というのは、
非常に強い感情の元に成り立っているように思う。
だから時間が経ったり、何度も話しているうちに
当初感じていた強い思いは失われてしまうのではないか。
そんなことを思った。



・・・で、
話はいつものごとく、すっごく飛んでしまうけど
以前訪問販売をしていた時には、
セールストークなるものを作っていた。

客が購買意識を持つように
起承転結で作られた、ストーリーを語っていたのだが、
何度も語っているうちに感情が薄れ
同じことを言っているのに、全く売れなくなる。

その時は、再度セールストークを作成することになった。

感情というのは、いくら気持ちをこめて伝えても
時が経つにつれ揮発されやすいものだと思っている。

その感情をうまく使って販売しているのがジャパネットで
シナリオを作らずアドリブで感情のまま語っているらしく、
それが人の心に入り込み売り上げに繋がっていくのだと。。


・・・で、また話を戻してしまうんだけど、
テレビで見ている謝罪会見の大半は陳腐に見えてしまう。

まるで使い古された
感情のこもっていないセールストークを聞いているみたい。

先ほども書いたように、感情は揮発されやすいもの
どこかで自分に関係ないと思ってるから、感情が薄くなり
それを紙に書いて打ち合わせをして読んでいるので
完全に抜け切っているのだろう。。。
「謝罪会見」というより、
「体裁があるので仕方がない会見」のような感じがする。

当事者が見たら余計に腹が立つだろうな。。

ぼろぼろでもいいから
ぐっと来るような会見を見てみたいものだ。





書きながら気がついたのだが
謝罪と感謝とは同じ漢字を使っている。
ちなみに「謝」という漢字は、頭を垂れ下がる形らしい。

頭が垂れ下がるくらいの感情を込める事が大切なのに
言葉のみで伝えようとすることが多いように思う。

「すみません」という言葉に集約して
感謝と謝罪を混同してしまうから、感情が弱くなるのかな。

感謝ができない人は、
謝罪もすることができないのではないか・・・?

・・・なんて、
だらだら書きながらこういう結論に至ったのだ。。

コミュニケーション能力って何??

 2006-09-19
「コミュニケーション能力つけたいんですけど・・」
こういう要望で仕事を請ける。

実際にコミュニケーション能力のある人優遇
こういうチラシをよく見かけるほど、
世間では求められるスキルのひとつだと思っている。。

ちなみに僕自身
「あなたはコミュニケーション能力がありますか?」
こう聞かれたら、
「あります。」と答えることができる。


これはコーチングを学んだからではなく
武道で学んだ間合いも活かされているし
先輩後輩の敬いも活かされているし
さまざまな人間関係の積み重ねからも活かされている。




・・・で、コミュニケーション能力って何だ???

なんていう疑問が湧き上がってきたので、
考えてみることにする。


まず、わからないときは辞書を引けば載っている。
----------------------------------------------
コミュニケーションとは

1 社会生活を営む人間が互いに意思や感情、
思考を伝達し合うこと。
言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。
「―をもつ」「―の欠如」

2 動物どうしの間で行われる、
身振りや音声などによる情報伝達。

----------------------------------------------
読んでもわからなかった。


互いに伝達しあうだけの行為であり
伝達の手法としては言語・文字・身振りなどがあるのに
なぜみんな悩み、能力をつけたいと思うのだろう??

そもそも
なんでコミュニケーションをとりたいと思うのだろう。





色々考えたけど、人は誰かと繋がり
繋がった人に何かを伝えたい。
そう思っているのに、伝えたい何かが伝えられないから
模索するのだろうと思った。

その方法をコミュニケーションセミナーといった場所で
学ぶ人が多い。
最近受講する人が急上昇している。


セミナーを受けて意気揚々と使ってみる
それなのに・・・・。

その人とかかわった人が、新たなコミュニケーションに
悩むことになるのだ。。


たとえば人と円滑に会話ができる方法を学んだ人がいる。

そういった人が、沈黙が好きな人と一緒にいたら
どうなるだろう。
無理をして会話をしようとして
お互いに苦痛を伴うように思ったりする。

また会話が弾んで、伝えたいことが伝えられたのに
なぜか違和感が残ったりする。

結局、感情が満足しない限りは、
常にコミュニケーション能力不足と感じ
不完全燃焼を持ってしまうように思う。


「上司が部下」と「親が子供」とコミュニケーションを
とりたいと思って参加するが、片一方でなく
もし参加するなら当事者全員が参加しないといけない。

そうでないと独りよがりになって
相手に対してコントロールになってしまうと思うのだ。







なんか書きたいことがいっぱい浮かんできたんだけど・・


動物と戯れている時
子供と遊んでいるとき
僕の場合は、放浪して現地の人と言葉も通じないのに
宴会をして騒いでいるとき

このあたりに
コミュニケーションの本質があるような気がしている。


会話もままならない関係なのに、意思の疎通ができ
あくまで自然にお互いが繋がりあおうとする状態。
表情・しぐさ・間すべてを大切にし
相手を受け入れ
自然体な自分を伝えようとする行為

・・・。

うまくまとめられなくて、もどかしいけど


たぶん、自分が素の状態になれる能力を持ちながら
相手の素を受け入れる能力が
コミュニケーション能力なんじゃないかと思った。


だから一方がコミュニケーションについて考えても無駄。
お互いがどう自然に作りあっていくかということを
考え続けることが必要なんじゃないかと思った。


あえて言うなら、
常に自分が動物や赤ちゃんのように自然体でいる。
こうすれば相手は、
受け入れるために素になってくれるように思う。

コミュニケーションに悩んでいる人は
自分が開放することから始めればいいように思った。




難しいテーマだったな。。

しばらく考えてみよう。

ちょっと言っていい?

 2006-09-18
タイトルのような会話をしたときだった。


「えっ。。」

相手はなぜかドキドキしている。

「いい話? 悪い話??」

そのドギマギした様子に笑ってしまった。



大体は相手にとって都合の悪い話をするときに
ワンクッションを置くために許可を取るのだが、
いい話か悪い話かっていうのは、伝える人が判断するのではなく
受け取る側が判断するのだと。。


例えば、変なたとえで、
「昨日奥さんが別の男の人とラブホテルに入って行ったで。」

こんなことを人から伝えられたとしよう。


新婚で幸せな家庭を作ろうとしていた人からすれば
ショックで立ち直れないかもしれないだろう。

なぜ教えたんだ!!と逆恨みをされてしまうかもしれない。


しかし、どうにかして離婚したいと思っている人からすれば
これはチャンスだ!!
教えてくれてありがとうとなるのかもしれない。


同じことを伝えたのに良い話とするか悪い話とするかは
相手が判断することなのだ。





それなのに、何か人に伝えようとするとき
これを言えば傷つくかな・・
言いにくいな・・・て思うのは、受け取る側でなく
伝える人が勝手に判断しているだけなのだ。


出来事を伝えるはずなのに
<これを言うとすごく辛く傷ついて泣いてしまうかもしれない
伝えた後、もしかしたら立ち直れないかもしれない>

(心の中でそういう台詞を言った後)・・・けど伝えていい??


伝える側が、
勝手に物語を作り上げ重たい雰囲気をかもし出すのは
いかがなものかと。。

最初の話に戻って、相手にとって都合に悪いことを伝えるとき
許可を取るといった。
でもよく考えると、都合が悪いと思い込んでいるのは
伝える側である僕でしかないんだと思ってしまった。

相手を大切にしているからじゃなくて
これは自分が傷つかないようにしているだけなんだろう。

なんかずるいな・・・・。

本当に相手のことを思って伝えるにしても
もう一度こういった場面での自分の対応を見つめなおそう。。




ボロは着てても心は錦

 2006-09-16
この諺の使い方が正しいかどうかわかりませんが・・・。

過去の思い出より。。

高校では、農業を学んだので泥汚れを多く体験している。
数学や英語の授業は、週に2時間しか学ばない代わりに
畜産や作物といった講義のほか、牛・豚・鶏の飼育管理、
田植えや稲刈りといった作業を数多く学んだ。

その当時は本当にドロドロの高校生だった。
そして僕だけでなく、仲間全員が普通に糞と格闘していた。

放牧している牛の徐糞やら鶏糞の袋詰め
時には田んぼに動物の糞を発酵させた堆肥をばら撒く。
そんなことを繰り返すので
全校生徒が必ず通る下駄箱に入れている地下足袋は、
異臭を放ち、農業科の近くに来ると普通科のみんなは
鼻をつまんで通っていく。

入学当時は、
すごく恥ずかしく嫌な気持ちでいっぱいだったが
慣れとはすごく恐ろしいもの。。
田んぼ作業の後は、汚い水路で足を洗うこともできたし
作業着に動物の糞がついてもなんとも思わなくなった。

逃げた牛を捕まえるために飛びついたら、
糞の混じった土にダイビングし笑い話ができたし
乳搾り中、嫌がる牛に顔を蹴られたら、
後足に付着している糞が顔にスタンプすることもあった。

そんな糞だらけの毎日でも笑うことができたのだ。。



そして、・・・すっごく話が飛んで




僕が旅に出ているときは、かなり汚い格好をしている。
泥だらけになっても平気だし、シャワーを浴びれずに
頭がパサパサなときもある。
ドロドロに汚れ臭い体でも楽しいし、
笑いが多いように思う。


・・・で何がいいたいかというと
汚れる行為って本来楽しい事なんだよね。。


小さいころの泥遊びは、楽しかったし
雨の中、水溜りに入りビチャビチャになるのも楽しかったし
山登り中、滑ってお尻に泥がついたら楽しかったし
服のままなのに海に落とされ、びちゃびちゃになったり
服のまま田んぼに落ちて汚れてみたり。。

最初は抵抗しても、
いったん汚れたら吹っ切れたようになり、
なんか楽しんだよね。。



これを普段の生活の中できるかっていうと
すごく抵抗しちゃうだろうし、
お気に入りの服に鳥の糞でも落ちてこようなら
一日最悪な気持ちになるだろうと思う。。


先ほども書いたように、僕は汚れることに対して
全く苦と思わない経験をしてきた・・・つもりだ。
それなのに、着ている格好によって全く対応が違う。


洋服って何なんだろう・・・??

綺麗な洋服を着ている時って、
どういう人でいたいのだろう・・?

自分を引き立てるものであるはずなのに
行動や感情を制限しているのなら考えなければいけない。

おしゃれは否定しないし、服はすばらしいものだと思う。

でも人って汚れている格好をして
泥だらけになっているときのほうが
無邪気で自然体になれるような気がする。。

この違いって何なんだろうね??

本当はどういう生き方がいいんだろうね?


あらためて「ぼろは着てても心は錦」
こういう生き方も大切なことなんじゃないかと思った。。


理想は葉っぱのみを下半身につけて生活するのが
一番良いのかもしれない。。

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好意なのにすれ違い

 2006-09-14
うちの家には毎週のようにパンを持ってきてくれる人がいる。
この人は親父の友人なのだが、
そのパンの出所は、学校用に作るパンの残り物らしいのだ。

・・・・。

こう書くといいイメージを持たないのは不思議なのだが
もっと詳しく書くと、パンに使う粉は学校からの支給品で
その粉は、人数分よりかなり多めに配給してくるらしく
普通に焼いても、どうしても粉が余ってしまうらしい。
粉を捨てるのはもったいない。
・・ということなら、
この粉で販売用のパンを作って売ればいいのだが、
それをすると完全に横領になってしまうため、
焼いたパンは、親しい人に配っているというわけなのだ。


「毎週毎週パンを持ってきてくれるので
お礼をしないといけないね。。」

そう話す母親は、あまり乗り気じゃないみたいだった。

そして続いていった言葉に驚いた。

「別にいらんのにね・・・・」

僕はパンを食べないので知らなかったのだが
両親はあまり喜んで食べているわけではないらしいのだ。


「いらんって言えばいいやん!!」
・・・・。こういったところ、


「毎回良いと思って持ってきてくれるのに、
断ったら申しわけないやん・・・」


両親の言葉に呆れてしまったけど
結構ありえることかもしれないな・・なんて思った。





相手はいいと思っている

本人は嫌といえない

お互いのことを思いあいながらもすれ違っている。。

このまま続けば迷惑になってくるんだろうな。。

相手にしたら、よい事をしているのに嫌われた。
こういう風に陥ることも考えられる。
とても残念な関係の作り方だと思ったりした。


当たり前という感情が積み重なり膠着し
感謝するという当たり前のことができなくなったのだろう。

しかし当たり前なことほど感謝をし続けないと
自分に都合の悪いことを伝えようとするとき、
申しわけない思いのほうが強くなり
伝えることができなくなるのではないか・・・。

きっと、10の気持ちをもらったら10の感謝で答えないと、
自分自身に制限した感情が発生し、
負い目や申し訳なさというものを持った、
ちっぽけ人間を形成してしまうように思った。


当たり前に思っているって恐ろしいことだね。。

日記の書き方

 2006-09-13
子供たちの書く作文に対して
コメントしながら学習を促すようにお手伝いする。
親とも電話で話しながら、より子供たちが学びを得るように
一緒になってサポートをする。
こんな仕事を見つけたので、
子供好きだし可能性を引き出すお手伝いもできるし
お小遣いにもなるので応募した。
ただ僕自身も作文を書いて審査されるので、
どうなるかわからないけど・・・

ただ以前なら絶対に応募なんてしなかった仕事に対して
日記を書き続けていることで、文章に苦手意識を持たず
新しい可能性として開かれたので、よかったと思っている。


さて本題。



よくネタがありますね~~

こんなことを言われたことがある。
多くの人はネタに困っているらしいのだが
僕は日記を書いていて
ネタなんて意識したことなんてなく、起こったこと
気づいたこと、ただそれを書いているにすぎない。

もし新聞記事のコメントでいいのなら
毎日更新することもできる。

僕の日記の一番の愛読者は僕自身であり
この日記で書いたことは、僕の成長の証であり
今後プログラムを作っていくときも
この日記の中で書いたことを活用しようと思っている。

だから備忘録であり資料として保存公開している。


・・で、いいのか悪いのかわからないけど
後日読み返したときに、ひらめきで書いたそのときの文を
これってどういう意味かな・・なんて思わないように
補足を兼ねて、だらだらと書いていたりする。


今回、僕の日記の書き方を改めて見直してみたところ

・あるキーワードに対して浮かぶ言葉・光景を打ち続け、
どうまとまるかもわからず、だらだらと書き綴った結果
文章が出来上がるパターン
この場合タイトルがキーワードになることが多いかな。。
今回の日記がそうかな。。


・また、いくつかのキーワードがあって繋げながら
文を作っていくパターン。
この場合も最後にどういう文になるのか全くわからない。


・さらに一番書きたいこと、たとえば数学で言うと
答えが先で、その答えになるように文を書いていくパターン


いずれにしても一挙に書き上げることが多く
人差し指と中指しか使えないのにキーを打つのは早いし
どの日記も下書きもせず30分位で書き上げることが多い。


だから後日読み直してチョコチョコ手直ししていたりする。




その効果のひとつは出先でキーワードだけをメモしていたら
家に帰って更新することができるようになったこと。
長文でメモを残すよりキーワードで保存するほうが
右脳の働きがよくなるらしいのでいいことだと。


またもうひとつの効果は
感情を素直に文章化できるようになったことだと思う。

自分の感情を客観的に見つめるとき文章であらわすことは
内面を整理することにとても効果的だと思っている。

感情と文章(言葉)というのは脳みそが違うので
どんなに伝えたいことでも、文にすると薄くなったり
気持ちがこもっていなかったりする。
文章は読み手が判断すればいいことだけど
本人はそんなつもりがないのに
読んでいて腹立たしく感じる文章を書いてしまうなら
感情と文章(言葉)をきちんと統合する必要がある。

たとえば僕は前職で、
よく上司に「何を言っているかわからない!!」といわれ、
何を話しても理解されないのかと思っていた時期がある。
そのときは
自分が開放されず少し抑圧された感覚を持っていた。

しかし今考えると、
頭の中には説明したい画像が浮かんでいて
その画像を伝えたいけど、伝えるのは左脳なので
イメージを伝えることができなかっただけなのかと思う。

その欠点が文章を書くことで、浮かんだものを伝える力が
なんとなくだけどついたように思ったりする。
そしてキーワードで書けるので右脳もよくなる。


いいことだらけなので、これからも続けたいし
子供たちには感情もきちんと表現できる人として
関わってみたいと思うのだ。。

自主規制

 2006-09-13
今日の日記はエロエロ部分登場。。


昔レンタルビデオ屋でスケベなビデオを探していると
自主規制という表示がついているものがあった。

どういうものかというと、書きにくい・・・。

視聴者の求める映像を提供したいけど
法律上の制限がある。
ここまでならお互いが納得でき、法律にも抵触しない。
ぎりぎりの線で編集していること。

その自主規制を見る度、じれったいな~~
もどかしい気持ちになった。

それでもビデオ倫理委員会というものが検査しているより
視聴者の本能に答える編集をしてくれているだけ
好感が持てた。
俗に言うギリギリモザイクとか
消えるモザイクといえばいいのだろうか・・。

今は最初から修正していないものを流通ルートより
手に入れるので、規制や倫理なんて必要ありませんが。。

エロエロですみません。すいません丸秘




話し変わって、
僕の嫌いなマスコミが珍しく貢献している飲酒運転問題。
こういうときの力、社会を変える力
しつこく数字を取るためと思いながらも、
多く人に影響を与える。

そんな中、
公務員が酒気帯びで免職という罰則を採用しだした。
罰則にしないといけないの??という思いと
今頃世間体を気にして作るな!!という思いが交差する。

先ほどの自主規制という話。
ビデオ会社の彼らは、自分の判断で行動している。
自分の意思もありながら、顧客相手のことを思っている。

それに比べ
役所を含め急遽罰則規定を作成したところは
人のためにとった行動というよりも
ただ体裁をとるためにしたようにしか思えず
根本的な改善にならないと思っている。



懲罰を設けた後の彼らはどういう心境になるのだろう。


懲戒になるから飲むなよ!!

飲むと意識が定まらずに危険な運転になって
事故を起こすかも知れないから飲むなよ!!



当たり前のことなのに
多くのところは前者のような気がしてならない。

そもそも後者の思いが強いのなら
罰則を作る必要なんてないのではないか・・・?


罰則でなく、人のことを考えて行動する自主規制
こういう生き方のほうが、魂がこもっているし
将来的に根本的な改善になるように思った。


・・といいながらも僕自身若いころは、
ジュースホルダーにビールを置いて運転していたり
酔っ払ったあと足りないお酒を買いに運転することがあった。

たまたま事故をしなかっただけなので
自主規制をさらに強化して取り組んでいきたいと思う。

そして運転だけでなく、その他のことも
自分本位になっていないか考えていく。

線路は続くよホニャラララ

 2006-09-12
面白そうな仕事や面白そうな人、
WEBや新聞記事で見かけると興味が広がり、
個人宛にメールを打つことが多い。
最近減ったがお手紙を書くこともあった。


返信は来ないのは当然という気持ちで、
自分はこう感じた。
この辺が面白くて共感した。
・・・なんていうことを書きながら、
さらにもっと詳しくお話を伺いたい!!
そんな興味が強まったときには、アポを取らせてもらう。

こういう直感的な感覚は、時にびっくりするような
行動を誘発する。
こんなときは
日帰りで遠距離に出向くことも全く苦にならない。

話が弾むと、さらに違った出会いを紹介され、
人のつながりが面白く広がることがあった。


しかし・・・今は、もう過去形
その多くの出会いを活かせないまま、今日に至り
再び連絡をつけにくいような時が流れてしまった。

なぜ継続した付き合いができなかったのだろう。。

最初の目的は、ただ話を聞きたい。。
それだけだったはずなのに、自分の仕事にならないか。
一緒に何か仕事ができないか??
・・・、などに焦点が当たってしまったようだ。

人と人との付き合いよりも
お互いの・・・・。いや、自分の利益になることばかり
考えてしまっていたのかもしれない。






最近では同じように興味を感じてメールを送っても
以前と同じような好奇心でやり取りをしていなく。
返信が来てもWEB上で何度かやり取りをするだけで
お会いすることなく連絡を取り合わなくなった。

・・・というより、
最初から
自分の仕事に結びつけばいいなといったことに焦点が当たり
どこか人そのものに対しての興味が
失われてしまっていたのかもしれない。

僕の仕事はこうで、あなたの仕事にこう結びつきます。
極端な話、メールですべて語ってしまっていた。
こんな風に変化したのは、いつからだろう・・。

メールをやり取りして、自分にメリットがないと気づくと
こちらから縁を切ってしまっていたのかもしれない。



日に日にギラギラしていたように感じる。
仕事とは
そういった野心に満ち溢れているものだと思っていたけど、
何かうまく歯車が噛み合わない・・・。

川やんのくせにギラギラ・ガツガツしてはいけないのだ。

そんな風に感じ反省した。


これからは、
もう一度、直感を信じ会いたい人に素直に接し、
お会いした人を純粋に惚れることから始めよう。
自分のことは捨て、その人が喜ぶことをお手伝いしよう。
仕事になる、ならないは当面意識しないで、
長期的視野でいろいろな人と関係を作っていこう。




自分の都合で他人の
仕事や項目に惚れてはいけない
人そのものに惚れるのだ!!!


この思いをぶれないようにしておきたい








会社を辞めてちょうど一年、
レールを切り替え、
いい感じに走り始めた電車のスピードが遅くなった。
方向を定め、乗せたい乗客も見つかり、
次の駅が見えているのに、乗り降りする人のための
さまざまな路線と乗り入れの提携できていない。
そしてまだ車両は一車両しかなく、
多くの人を乗せることができない。

そして次第に電力不足・・・・。


耐え時だ。。。

てんき

 2006-09-10
今の自分を形成しているには
必ず何か転機があったはず。


進学、就職、転職

恋愛、出会いと別れ、結婚、離婚

生と死

こういう出来事だけでなく
ちょっとした言葉も心に残った場合転機になる

出会った人に大きく影響され、
尊敬なんかしようものなら、今後の人生の転機となる。



こういう転機となりうることも、振り返ってみないと
なかなか気づくことができない。

すべての出来事をお天気マークであらわすと
必ずしも晴れマークが、すべていい転機とは限らない。

その当時は雨マークだったとしても、結果的に人生にとって
晴れマークに変わる可能性だってある。


たとえばすごく嫌で嫌で仕方がない仕事に就き、
その当時は雨マークばかりだとしても、
よりよく生きようと自分を見つめることができたのなら
結果的によかったよな。。
・・・なんて晴れマークに変わることだろう。


これら天気をテンキーを使って数値化して
今日は上司に叱られた。(雨マーク)3点

反転して
上司に叱られたから、自分の苦手なことがわかった。
(晴れマーク)7点

などといったように
ノートなどに転記し、いつでも振り返れるようにすれば、
きっとすべての出来事は意味があると
感じることができるだろう。



「てんき」という言葉で思いついて
ほぼ強引に書き上げてしまった。。


過去の人だから

 2006-09-06
ホリエモンの裁判はが始まり
ライブドアの幹部にインタビューした答えを聞いて
絶句した。


過去の人だから。。。

・・・・・。


・・・・・・。




もし僕がホリエモンと同じ立場なら・・・。
彼らをぼこぼこに殴り倒してやりたい。

彼らからは

見守っています。
真実を知りたいです。
信じています。
がんばってほしいです。
こういう言葉を聞きたかった。。




保身に走り
手のひらを返すって嫌だね。。

自分のことしか見えないと
相手の気持ちを考えない。

自分に関係ない人とは一線を置く。


僕もやっていることは多いだろうな・・・・。
しかも誰にも言われないと、わだかまりだけ残して、
まったく気づかず逆切れになる。

言われないと気づかないことも多いのに
言ってくれる人がいない。




違和感はすぐに出す
そのためにどういう関係を作りあうか


すごく大事にしている。






過去の人だから・・・。

すべての出会い出来事は意味のある事なのに
存在さえ否定されるような言葉
本当に考えさせられた。

3秒で泣ける思い出と祈り

 2006-09-02
いきなり余談だけど最低でも月14回の日記を
書いているみたいです。
先月は少し意識して投稿したけど2日に一回更新って
やっぱりすごいよな。。


昨日は16年一緒に過ごした弟の49日
49日を迎えてご飯をお供えしてあげました。


いまだ写真を見るたび涙を流してしまう・・・。

コーチングを知り、自分を見つめ始めてから
涙もろくなったようで、すぐに涙を流すようになった。
犬とはいえ身内の死というものがここまで辛いとは・・・
両親は寿命と割り切っていて、
僕の中にもその意識は持っているはずなのに・・・。
案外引きずっているみたいだと気づいた。


僕は死んだ祖父母やこれまで家で飼っていた動物に対して
毎日の習慣のように手を合わせている。
しかし死んだらもう関わることができない。
いくら手を合わせても、
生前と同じような感情のやり取りはできないし
感謝をこめても気持ちに対する返答はわからない。
どうしても一方的にな祈りでしかないんだと思ったりする。
「ありがとう」
「守ってね」
「見ていてね」
・・・、なんて言っても、こちらの都合ばかりであって
死んだ人に対して、
僕が「守ってあげるからね」なんていわない。

死んだ人に対して、またはお寺や神社に行った際は、
お願いをするほうが多くなっているかも知れない。


祈りを捧げる場では感謝し、願いをこめたりするが
「そのために私は何かをします。」とは滅多にいわない。
そう思うと、祈りを捧げるモノ(神)に対して
ある種、期待と依存が発生しているのかもしれない。
自分は何もしないで、感謝し祈りを捧げるだけで
守ってもらおう、
願いを叶えてもらおうなんて、やっぱり虫が良すぎる。。

だからいけないことだけど生贄や人柱というのは、
命を捧げるくらいの願いをこめて行う対等な行為なのかも
知れないと思った。


生贄や人柱もなく
この時代に生まれた意味、日本人に生まれた意味、
今でも生かされている意味は、忘れてはいけない。

先に生まれて時代を作った人に対して
感謝と祈りをささげる本当のあり方は、
自分が精一杯生きていくんだという誓いが重要なんだと思う。
お供えもお賽銭も大事だけど、
自分自身が何かに対して責任を持って
実行するんだ!!という決意が大切なんだとも思う。

そうじゃなかったら
祈りを捧げるよりも保険にでも加入したほうが現実的であり
確実なこともあるように思う。


その場が楽しかったら良いという生き方と
後悔しない生き方とは違うような気がしていて
その場が楽しくても無駄な生き方だと思うことも多い。
一瞬一瞬が楽しく、それでいて悔いの残らない生き方。

そんな生き方をし続けたい。

それが今なお生かされているものたちの義務なんだと。。
そして後世に何かひとつ引き継ぐのが使命なんだと思う。

自分が後悔して死ぬことになると
将来手を合わせられる存在になったとき
何もしてあげれないし、
あわせられることすら恥ずかしいかもしれない。


なんか変な宗教みたいな日記になってしまった。。
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プロフィール

川崎信明(かわやん)

Author:川崎信明(かわやん)
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